デスクでパソコンに向かいデータ作成中の岡田さん

銀行員・岡田太丞(おかだ たいすけ)さん。

様々な努力や工夫をされて復職され、現在、培われた人脈やITの知識を駆使され、グローバルな経済情報を中心とした様々な情報を配信する業務で活躍されています。

ご本人の理念としておられる『日本の企業のCSRやダイバーシティといった考えに、就労率の低い視覚障害者の戦力化といったことが当たり前のように唄われる、そんな時代の実現』を目指して、日々、白杖をついてメガバンクで勤務する、まさしく将来の視覚障害者にとっての灯台の光のような方です。

※CSR=企業の果たすべき社会的責任、ダイバーシティ=多様性の享受

岡田さんについての新聞記事

平成28年度 内閣府「心の輪を広げる体験作文」

兵庫県 「優秀賞」

岡田 太丞(おかだ たいすけ)
50才

題名「バリアバリューと言える社会の実現を目指して」

私は約13年前、海外勤務中の交通事故により両目共失明した。まず考えたことは、仕事はどうなるんだ、会社を辞めなくてはいけないのか、妻や子供をどうやって養って行くのか?といったことだった。
周りに視覚障害者はいなく、何の情報もなく、それは真っ暗な海に一人投げ出されたような心境だった。そこには一筋の光もなく、不安という大きな海の中にただ沈んで行くだけの自分がいた。
そんな中、熱心に歩行訓練をして下さった先生、そして先生より教えて頂いた音声ソフトの入ったパソコンとの出会いは、真っ暗な海に投げ出された私にとって、進むべく道を教えてくれる僅かに光る灯台の光だった。その光に向かって私は真っ暗な海を必死に泳ぎ続けた。
来る日も来る日も自宅から会社までの歩行訓練をし、また、パソコンのキーボードの配列を全て暗記しブラインドタッチが出来るように、毎日寝る間も惜しんでパソコンを叩き続けた。職業訓練の存在を知らなかった私は、妻からの助言を元にメールにワード、エクセルが出来るように独学でもがき苦しんだ。
会社に対して、音声パソコンを利用すればこんなことが出来るとプレゼンする為に毎日必死だった。復職への執念しかなかった。
そして会社の担当者宛てへのプレゼン。真っ暗な海でもがき苦しんだ全てをぶつけた。その思いが届いたのか、会社の担当者は、白杖だけで会社まで来られるようになったのか、そして音声パソコンでここまで出来るのかと驚いていた。このプレゼンが起点となり復職への道が開けた。光を放っていた灯台へ泳ぎ着いた瞬間だった。

私は復職して今年で9回目の夏を迎えた。復職当初は残念ながら仕事は無かった。しかし導入された音声パソコンを利用して世界各国からの様々な情報を取得し、それらを利用した社内向けのメールマガジンを配信する業務を確立した。音声パソコンとの出会いが今の私の仕事を生み出してくれたのだ。
とはいえ、私は日々、色々な方々からの心温まる支援を受けている。職場では私以外は全て健常者という環境であり、執務上どうしても困難な事については上司や周りの同僚がさりげなくサポートしてくれる。そのさりげないサポートには、人としての「優しさ」を感じると共に、人間は一人では生きて行けないことを常に教えてもらっている気がする。
転勤がある職場なので、数年毎に上司、同僚が代わるが、その多くが、私と接するまで視覚障害者とは縁がなく、何に困っているのか等、全く分からなかったが、日々私と接することにより、街中で白杖を持つ人を見かけたら「何かお手伝いできることはないですか?」と声を掛けるようになったと言う。そしてそのことをご家族にも話しているとも聞く。
そこには新たな「心の輪」であり「心の和」が生まれていると感じる。手前味噌ながら、私の存在が上司や同僚の視覚障害者に対する考えを変え、上司や同僚経由、ご家族にも良い波動が出ているのではないか?と思う。本当に嬉しく有難い限りである。

音声パソコンが私にもたらしてくれたのは仕事だけではなかった。音声パソコンを通して様々な視覚障害に関連する友人達が出来た。典型的な会社人間だった私には絶対に出来なかった利害関係のない一生ものの友人達。この友人達は私の一生の宝物だ。音声パソコンは私に仕事のみならず一生ものの宝物をももたらしてくれた。

しかし、大切な視覚障害の友人達との付き合いの中で、度々切ない思いをする。それは、視力が悪くなるにつれて仕事を続けられなくなる友人がいることだ。もちろん、視覚に障害があっても様々な工夫をしながら企業の第一線で仕事を続けている仲間もいるが、やはり企業側の理解を得られずに、やむなく退職する仲間も存在する。
働きたいと思っていて意欲も十分にある人間が仕事に就けない、こんなことがあっていいのか?それも理由が視覚障害者だからというのはあまりにも悔しい。

私は働きたいと願っている視覚障害者の仲間が皆、納税者になれる、そんな世の中にしたいと思っている。とはいえ、私一人では何も出来ない。来る日も来る日も思い悩んだ。
行き着いたのは、確かに私一人では目に見える大きな事は出来ないだろう。しかし、私自身が今の会社で健常者の中で働き続けることが大切ではないか。そんな自分の姿をサンプルとして少しでも多くの方々に見てもらえるようにすればよいのではないかと考えた。
その為には講演も受け、色々な媒体からの登場依頼も受け、一般企業で働く視覚障害者の自分を見てもらえるようにしている。そんな私の姿を見て、社会の意識、企業の意識が少しでも変ることを願っている。
残念だが、企業の障害者雇用の中で、視覚障害者の割合は最低レベルと言っても過言ではない。2%の障害者雇用率の達成に前向きな企業もあるが、そこには視覚障害者の雇用が抜け落ちている。これが現実だ。
「視覚障害者に仕事が出来るのか?通勤は大丈夫なのか?」これらは企業が持つ不安や疑問である。企業の立場に立てばそう考えるのも分からなくはない。
音声パソコンを利用すれば仕事はできるし、歩行訓練を受ければ通勤も可能である。
こういったことを企業側に知らせたいという思いから、過去には障害者雇用率が高い大手アパレルメーカーの担当者にコンタクトして、視覚障害の職業訓練の責任者との面談をセットしたこともある。

また、友人を通して国会議員と面談し、そこで私は一般企業における視覚障害者の雇用率の低さを説明の上、企業が視覚障害者を雇用する為に、クオータ制の導入についての法整備の検討を訴えた。そんなこと、誰がお願いしたと視覚障害者の関係者からお叱りを受けるかもしれない。が、自分の生活が良ければそれだけで良いのか?

私はこれから視覚に障害を負った状態で就職活動をする後輩達の為に何かしたいと思う。法律も整いつつあるが、我々当事者が能動的に動かなければ物事を動かすことは出来ないと思う。
10年、20年先の視覚障害者の就労を取り巻く環境を少しでも良くする為には、今現役の私達が汗をかかないといけないと思う。とはいえ、誰しも自分の生活基盤の確率が一番だ。だから、自分の生活基盤を確立できている現役の視覚障害者の中で、志を持った人間が「出来ること」をやれば良いと思う。

世間ではダイバーシティという言葉が使われるようになり、企業の意識も少しずつ変って来ている。だが、残念ながら現在の日本の企業のダイバーシティという概念は「女性の活躍」ということがメインである。女性が活躍する社会は当然のことであり、それをダイバーシティのメインとして語るだけでは、「一億総活躍社会」に何か足らないとは感じないか?
女性が活躍する社会は当たり前で、ダイバーシティのメインは障害者雇用にならなくてはいけないと考える。

高齢化社会の到来、ユニバーサルデザインの世の中では、障害者ならではの発想を生かせる仕事が存在するはずであり、企業が障害者ならではの発想を求めるにあたり、「各障害者をこぞって採用する世の中」になること、こんな世の中は夢物語だろうか?
私はそうは思わない。バリアフリーという言葉があるが、逆に障害が武器となるバリアバリューという概念を日本の企業にも持って欲しいと思う。もちろん、我々障害者自身も自分のスキルアップを図る等、努力はしなければならない。
その上で、雇用する企業の意識も変えないといけない。これは簡単なことではないが、その一助を担えればと思う。

私は幸運にも復職の道を得ることができたが、そこには、音声パソコンや多くの仲間との出会い、そして色々な方々からのご支援があってのことである。それら全てが灯台の光として、真っ暗な海の中で思い悩んでいた私を今の私へと導いてくれた。
その恩返しではないが、今度は私が光を放つ灯台となり、未来の視覚障害者の就労を取り巻く環境を少しでも良いように変えられればと思う。
その為には、どんなささいなことでもやり続ける。「障害者を含めた本当の意味での1億総活躍社会の実現」を目指して。それを今後の人生の生き甲斐にしたい。
「微力は無力ではない」ことを信じて明日も頑張ります。

就労環境考えて 点字合格記念講演 視覚障害者講師に

毎日新聞、2011年2月7日(掲載許可取得済み)。

今年度の県、高知市職員採用試験で初の点字合格者が出たことを記念した講演会が6日、高知市内のホテルであり、約50人が参加した。
民間企業などで活躍する視覚障害者を講師に招き、「視覚障害者が能力を十分生かせる就労環境」について考えを深めた。

今年度の点字試験では、高知市の吉岡邦弘さん(32)が3度目の挑戦で県職員採用試験に、高知市職員でも男性1人がそれぞれ合格。
「県視覚障害者の就労を促進する会」が特別総会を兼ね、記念講演会を主催した。
講師の銀行員、岡田太丞さん(45)=兵庫県在住=は03年、赴任先のタイで見つかった脳腫瘍などの影響でほぼ全盲になり、5年後に復職した。東南アジアの人脈を駆使して「現地発」の企業情報を集め、国内外の行員に提供。当初十数人だった購読者数は先月末現在で1500人を超えた。
「失明前は収益を上げる『フォワード』だった。
今はゴールを決められるパスを出す」と、見いだした自身の役割について語った岡田さん。
「微力は無力ではない。『0』ではなく『0.1』をたくさん積み重ねれば物事は動かせる。
障害者でもちゃんと仕事はできる」と力を込めた。

もう一人の講師で、全盲の大阪市職員、岸本慶子さん(27)は周りがどんな風に忙しいか分かりにくい時があるが、支援を頼む勇気を持つことが大事と主張。気を使わず、できる仕事を任せてくれた先輩の存在に助けられた経験から「どんなに小さなことでも相談に乗ってくれる人、サポートしてくれる人がいれば仕事は楽になる」と話した。

カラー写真説明:視覚障害者の立場から、仕事について語る岡田太丞さん
※写真データはありません。

平成19年度内閣府「心の輪を広げる体験作文」

内閣府「佳作」

兵庫県「最優秀賞」

岡田 太丞(おかだ たいすけ)
42才

題名 「白杖が教える 日本の進むべき未来」

「痛い」「アホ、どこ見て歩いとんねん」「すいません」
この言葉、どのような方々の言葉か分かりますか。しかし、まだこうして相手の言葉がある時はましであると思えるようになりました。中には、「チェッ」とただ舌打ちだけを残して立ち去る人もいます。これは大阪の巨大ターミナル、梅田で視覚障害者である私と普通に見えている晴眼者がぶつかった時に発せられる声の数々です。
携帯電話で話しながら、また商談の時間に間に合わないと時計を見ながら、それとも隣りの奥様との会話に夢中になりながら、とにかく、「何々しながら」世の中、全く前を見ずに歩いている人ばかりです。
これが大都会の、いや、全てとは言わないまでも、日本の縮図でしょう。
そんな中、私は会社への復職の為に、自宅から会社までの道のりを日々、白杖を使って歩行訓練をしています。
この1年間、前述のように「何々しながら族」にぶつかられ、倒されて白杖を3本折られました。でも、そのぶつかって来た人達は謝ることはせず、こんな人込みの中、歩いているお前が悪いと言わんばかりに舌打ちをして、または黙ってツカツカというハイヒールの音だけを残して立ち去っていきます。屈辱的な事の連続でした。
私が視覚障害者になったのは、病気とその後の処置の悪さ、また交通事故等々が複雑に絡み合った結果で、今年でもう4年になります。
それまでは会社の営業担当として、タイのバンコックで日々バリバリと仕事をしていた典型的な会社人間でした。
それが病気と事故で突然、視力を失い、今では左目はほとんど見えなく、右目も僅かに残る視野でものの影を感じる程度になりました。嬉しいかな悲しいかな、運転免許証は失行し、代わりに身分を証明してくれるものとして、視覚障害1級の障害者手帳が手元に残りました。
私には妻も子供もおります。落ち込んではいられない。落ち込んで視力が戻るなら、来る日も来る日も落ち込むところですが、それは残念ながら医学的に見てもありえないことです。また、それでなくても心配しているであろう家族には「決して弱気なところは見せられない」と家では努めてニコニコと笑うように、前向きに前向きに生きようと心掛けて日々過ごしました。物事を前向きに考えだすと、外で出くわす屈辱的な経験も違った見方で捉えることができるようになりました。勿論、私にぶつかってきて、白杖を折って、そのまま立ち去る人ばかりではありません。「兄ちゃん、電車はこっちやで」と私の腕を掴んで電車のドアまで引っ張って行ってくれる、世間でいうところの「大阪のおばちゃん、おっちゃん」もおられます。ただ、私のような目の見えない人はこのように突然、腕を掴まれて引っ張って行かれると、そこには有り難い気持ちより恐怖感の方が心に大きく残ります。私も最初は、この人達の親切心より恐怖心の方が心に残りました。これでは折角の親切心が台無しです。
でも考え直してみると、このおばさん、おじさん達は、ものすごく心の優しい良い人達なんです。ただ私のような目の見えない人のエスコートの仕方を知らないだけなんです。
そう思えるようになってからは、恐怖心より親切心の方が心の中で大きなウエイトを占めるようになりました。
会社までの道のりでは、数回、信号付きの横断歩道も越えなければいけません。この横断歩道が私のような視覚障害者には難敵です。まず、信号が青か赤か分かりません。ところによれば、音の出る信号機もありますが、探すのが難しい程、たまにしかありません。私が信号が青か赤か分からずウロウロしていても、周りの人は「今、信号は青ですよ」とか、「まだ赤ですよ」とは言ってくれません。
月に1,2度も声を掛けてくれれば多い方です。中には、私が人の気配を感じて、「今、信号は青ですか?」と尋ねても、返ってくる声は無く、ツカツカというハイヒールの音だけが通り過ぎて行くこともしばしばです。
私は人間を性善説だけで語りたくはないですが、ぶつかって来て白杖を折って行った人、突然に腕を掴んで電車のドアまで引っ張って行ってくれたおばさん、おじさん、そして、横断歩道で私の問い掛けに無視をして立ち去った女性、これらの人達は、視覚障害者である私達がどんな事で困っているか、また、どんな事をしてもらったら嬉しいか等々を知らないだけではないでしょうか。中には、白杖を持つ私を見て、心の中では、「何かしてあげたい」と思っても、どうして良いか分からない。そう思っている間に時が過ぎて何もできない。きっとこんな人もいるはずである。
横断歩道で「まだ赤ですよ」という一言が、私にとっては命の恩人的な言葉になると知っていれば、自分から声を掛けてくれる人もいるだろう。点字ブロックの上に停められている自転車が視覚障害者にとってどれだけ危険なものであるか、この事を知っていれば、点字ブロックの上に自転車を停めることをやめる人もいるだろう。しかし、ほとんどの人がそのことを知らない。それは何故か?答えは「教育」です。
NHKの番組で取り上げているように、私のような目の見えない障害者が、実際に小学校へ行って、子供達に「目の見えないことはどういうことか」「道で見かけたらどのようにしてあげたら良いか」等々を教えています。とても良い試みです。このように、一部の自治体や教育委員会では、その判断で、このような取り組みがなされています。
でも、一部ではダメなんです。この試みを日本全国の小中学校で、しかも1回だけではなく、義務教育の9年間、毎年、形を、レベルを変えて行なわないといけないと思います。
「目が見えないとは」「耳が聞こえないとは」「車椅子での移動は」等々、様々な障害者が、どんな事で困っているか、また、どのように接してあげれば良いか等々を実際に体験する。そうすれば、そのような事を習った子供達が大人になった時、その中のたとえ1人でも2人でもが、私達、障害者にとっての、ある時は「目」に、またある時は「耳」になってくれるでしょう。
私は駅コンコース等で、たまに「大丈夫ですか」というカタコトの日本語で語り掛けられることがあります。声の主は外国人です。有り難い反面、日本人としては恥ずかしく感じることも事実です。日本は経済大国です。しかし経済的に尊敬されることはあっても、その民度や品格の高さで尊敬されることがあるでしょうか?
日本は資本主義社会である為、ある意味、経済格差はやむを得ないと思います。
しかし、人に対する思いやりの心、いわゆる「心の品格」は、経済格差とイコールではないと思います。子供の頃の教育、英語も数学も、その他の科目も各々大切だと思いますが、色々とある中で、私の言う「障害者教育」も、その民族の品格を持って他国から尊敬される礎になる教育の1つだと考えます。
私の究極の目標は、「日本全国民のガイドヘルパー化」です。
視覚障害者が普通に外を歩いていても、周りの人が自然に声を掛けてくれ、目的地まで、時にはその途中までエスコートしてくれる、そんな世の中です。
これは夢物語でしょうか?
私の所属する会社は、民間会社であるが故、利益を追求することを第一の目標にしていたような会社でした。しかし、視覚障害を持つ私の存在が故かどうか分かりませんが、この度、日本全国の支店に視覚障害者用のATMの設置を決定しました。
利益追求主義の会社が、と思えば驚きですが、これも世の中の流れです。
手前味噌的な考えですが、私の存在が会社の意識を変えたのかもしれません。
企業の考え方も変ってきています。
あとは我々人間の意識を変えていかなければなりません。
30年、50年先の国家の形を語る上で、教育は避けて通れません。
そこで、「障害者教育の義務化」これこそがこれからの日本の進むべき道ではないでしょうか?民族の品格を持って尊敬される国、これこそが「美しい国」ではないでしょうか?
白杖は私にこのことを教えてくれました。
私は将来、白杖が教えてくれたこのことを、「白杖を持った国会議員」として、日本国民に伝える、そのことを実施できる一助になれればと考えております。
最後に私は心から言えます。「障害は決して不幸ではない、不自由なだけだ」。私は出世の為に仕事しか見えていなかった頃の自分より、出来ないことを素直に相手に頼める、そして心から「ありがとう」と言える障害者になってからの自分の方が好きです。
医学的には視野を失いましたが、人間的には視野が広がったと思います。
これからも「人間力」を高めていけるよう日々障害そして白杖が教えてくれることを勉強して行きたいと思います。

目が見えない状態でパソコンを打ちましたので、誤字、脱字には何卒、ご容赦下さい。